拙稿「減圧をめぐる諸問題」の本文をそのまま掲載します。但し、引用文献は省略しました。もとの掲載誌は防衛医科大学校雑誌 1998年23巻149-162頁です。
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【要旨】
減圧の諸相について以下のように概説した.1.気泡の発生及び消長.気泡を構成するガスの圧力の観点から気泡の消長を論ずるとともに,生体に於る気泡発生の特徴について記した.2.気泡の検知.超音波を用いた各種気泡検知法の長短を示すとともに,減圧症との関連を述べた.3.減圧理論.様々な考えに基づく減圧理論を示し,その特徴を記した.4.減圧表の評価及び制定.実用性及び信頼性に重点を置いて減圧表の評価制定に関する問題点を論じた.5.減圧症.ごく簡単に減圧症理解の現状を示すとともに,減圧障害という用語が包含する問題について記した.
【緒言】
減圧は潜水を行う上で避けて通れない課題であると共に,逆にこれから述べるような減圧が問題となるのは飛行及び宇宙船の船外活動を除けば潜水に限られる.つまり,医学に於て減圧が関与するのは極めて狭い範囲であるが,なおざりに出来ない主題であることも事実である.
減圧に起因する障害は,生体が高圧下に曝露されることによって生体内に溶け込んだ窒素などの生理的不活性ガス(以下,不活性ガスとする)が減圧により過飽和状態となって生じる減圧症や骨壊死と,減圧に伴うガス容積の物理的な増加によって生じる圧外傷及び空気塞栓症の二つに大きく分けることができる.本稿に於ては,その内の過飽和に関連する事象について概説することにする.なお,その最終状態としての減圧症等の臨床面については邦文の総説も見られるところから言及は最小限に止め,邦文記事の殆ど認められない基礎的な事項及び減圧表の評価制定などの実用面に重点を置いて記述する.
【気泡の発生及び消長】
気泡は液体の中に浮かんだガスを通す膜で包まれた球として捉えることが出来る.気泡の中のガスの圧力が液体中のガス圧力よりも大きい場合,気泡内のガスは膜を通して液体中に流出して気泡は縮小し,逆に気泡内のガス圧力が小さい場合は液体中のガスが気泡内に流入して気泡は成長する.
そこで,気泡を構成する圧力を考えてみる.環境圧力(外界の圧力のこと.通例に従って,環境圧力の用語を用いる)をP(組織内に溶存しているガスの圧力ではないことに注意.環境圧力が環境の変化によって直ちに変わるのに対し,組織内ガス圧力の変化には時間の経過を要する),気泡内の水蒸気を含む各種ガスの圧力をPg,組織の伸展に抗するエラスタンスをδ,球面の表面張力をγ,球の半径をrとすると,ラプラスの式を改変して次の関係が成り立つ.
Pg=P+δ+2γ/r ・・・・ (1)
これがどういうことを表すかというと,気泡の半径が小さかったり環境圧力が大きかったりすると,組織内のガス圧力に比較して気泡内の圧力が増加するため,気泡のガスは流出して気泡は縮小消失することを意味している.したがって,逆に気泡が存続するためには環境圧力が小さくかつ気泡の半径が大きいことが要求される.組織内に溶けているガスの圧力が同じであれば,環境圧力が小さくなると過飽和の程度が増えるので,このことは取りも直さず,気泡の消長は過飽和の程度と気泡の大きさによることを示している.
そこで,まず気泡の大きさについて見てみよう.最も気にかかるのは,気泡の形成と縮小を分ける分岐点となる気泡の大きさは如何ほどかであるが,これは(1)式からもわかるように,過飽和の大きさ,組織のエラスタンス,あるいは環境圧力等によって左右され,単純ではない.米海軍の潜水医学テキストではGibbsのfree energyの理論からおよそ直径8μ辺りを境界線としている.但し,D.E.Yountは減圧症の発症に直接関与する気泡の源となる微小核(micronuclei)の場合は0.1μ前後の大きさでも安定していると述べている.では,実際に減圧した場合に見られる気泡の大きさは如何ほどであろうか.B.A. Hillsらは減圧によって形成される血中の気泡をCoulter counterを用いて実測し,200μ近い大きさの気泡も認められるものの,およそ直径20〜60μの気泡が大多数を占めているのを見出している.
次に,気泡形成に要求される過飽和圧力について考えてみよう.これも(1)式から組織の性状,即ち気泡形成の部位や環境圧力によって大きく異なってくることが了解されるが,これは減圧プロファイルとも大きく関わってくる.と言うのは,一般に短時間の潜水では許容過飽和圧力が高く,長時間の潜水では小さくなるからである.そこで,一律の条件下ということも考慮して,不活性ガスが生体内に飽和した状態から大気圧へ減圧した際の気泡発生について述べる.
従来は飽和曝露下から大気圧へ特別な減圧時間を設けることなく浮上(減圧)することのできる最深深度は水深10mと言われており,米海軍潜水教範にもそのように記されているが,飽和潜水装置等を用いた実験によって,より浅い深度からの浮上でも気泡が発生し減圧症に罹患することが判ってきた.その中で最も浅い深度はR.G. Eckenhoffらによるものである.そこでは実に3.6mの浅さから浮上しても気泡が出現するとしているが,もしこれが事実だとすると従来の減圧理論に大きな疑問を投げかけることになる.と言うのは,生体のガス分圧を見た場合,酸素は生体中で溶解度の高い炭酸ガスに変わることから,酸素分圧の分だけ生体内の全体のガス圧力は小さいことになる.これをoxygen windowあるいは inherent unsaturationと言うが,3.6mという深さに相当する圧力はoxygen windowと殆ど変わらない.すると,生体内の不活性ガス分圧と環境圧力の比あるいは差を従来過飽和としてきたので,非常に小さい過飽和圧力によっても気泡が発生することになってしまうからである.但し,Eckenhoffらの報告で用いられた気泡検知の方法は後述するように信頼性に若干疑問のある超音波ドップラー法を用いたレジャーダイバーを対象とした実験であることを考慮しておかなければならない.より信頼性の高い超音波Mモード法を用いた実験では,深度6mからの浮上で気泡をごく僅かに認め,深度7mからの浮上では10人中4人に気泡が出現している.T.R. Hennessyらは複数の潜水実験の報告データを外挿して,脂肪組織に於る減圧症発症の閾値は7mであろうと予測している.
なお,非常に混乱することであるが,気泡が出来るための過飽和圧力は動物によってそれほど大きくは変わらないのに対し,その結果としての減圧症に関しては,総じて小さい動物ほど減圧症に罹患しにくいことに注意しておいていただきたい.
また(1)式には反映されていないが,環境の不活性ガスの種類によっても気泡の出現に差がある.なぜならば,潜水で用いられる主な不活性ガスには窒素とヘリウムがあるが,両者の拡散係数及び溶解度が大きく異なるからである.したがって,減圧の面からは短い潜水には拡散係数の小さい窒素が効率的であるのに対し,長時間の潜水には溶解度の低いヘリウムが好ましいとされているが,気泡を直接観察した報告は少ない.野寺誠らは実際に微小循環を観察することによって,両者を比較検討しており,90分までの曝露ではヘリウムの方が気泡が短時間で速やかに出現しかつ速く消失していることを見出している.また,気泡発現に要する圧力もヘリウムの方が小さいとしている(野寺:未発表).但し,この意見には適合する報告もあるものの,反対の論文も多いので注意しておかなければならない.もっとも,それらは気泡形成よりも減圧症への罹患をもって判断しているものが多く,より精密な観察が必要である.気泡形成には,不活性ガスの種類のほか,曝露時間の長短,減圧速度の大小が相互に関連して影響を及ぼしており極めて複雑であるので,今後の検討が望まれる.なお,実用上注意しなけれ ばならないこととして,曝露時間が長期にわたる飽和潜水からの減圧では,窒素の方が半減時間が長いために減圧に時間をかけなければならないことが実証されている.
次に,減圧による気泡との関連が不明瞭であるが,関節等においてX線写真上肉眼的に認められるガス相についても触れておく.これは低圧曝露後に認められるものが多いが,その理由の一つとして,固く締め付けられた部分が擦り合わされた場合に働く力が挙げられ,tribonucleationという用語が用いられる.これと減圧症とは直接関係ないとする説もあるが,最近のテキストでは無視できないこととして記述されることが多い.
この項の最後に,以上のことはあくまで生体の中での気泡発生であることを述べておかなくてはならない.純粋の水を大気圧まで減圧する場合,気泡発生に要する過飽和圧力の報告は200気圧前後36)から実に3000気圧以上もの高値に及ぶものまである.したがって,通常の有人潜水で見られる過飽和の程度はこの圧力よりも遙かに小さいので,生体内での気泡発生には純水中の気泡発生とは別の機構が働かなければならないことになる.そのために様々な仮説が立てられているが,中でも有望なのは先に触れたように,生体内に前もって気泡の核となるいわゆる微小核が存在しており,それが基になって気泡が形成されるというものである.しかし,微小核の存在はそれを間接的に示唆する実験があるのみで,その実態は究明されていない.今のところ,微細構造中の不整な構造が関与するクレバスモデル等が有力な機序として提唱されている.
【気泡の検知】
減圧症の発症に気泡が関与していることは古くから想定されており,さらに減圧症に罹患していないにも拘わらず気泡が存在するいわゆるサイレントバブルの概念も早期より示されていた.しかし,気泡の存在自体を直接的に把握する手段としては,電気抵抗の差などを指標とする方法などもないことはなかったが,超音波を用いる方法が実用化されるまでは有力で信頼に足るものは認められなかった.
超音波を用いる気泡検知で現在最も広く用いられている方法は超音波ドップラー法である.具体的には,検者は画像を指標とすることなく耳で血流音を聴きながら適切な部位を選択し,気泡に当たって跳ね返ってくるドップラー音を耳で検知することによって,血中の気泡を把握している.しかし,この場合次の二つの難点がある.一つは画像を指標としないことから,検知している部位の確認が出来ないことである.肺動脈中の気泡を検知するとなっているが,肺動脈中に超音波プローブの焦点を合わせることが容易ではないことは,臨床の経験がある人ならば簡単に想像がつくことである.二番目に,記録された音を客観的に評価することが難しいことが挙げられる.評価は人の耳で聴いて0から4にグレード分類するのであるが,それの信頼性が必ずしも高くない.実際に録音されたテープを複数の人に送って評価したところ,その評価にかなりのばらつきがあったことが報告されている.記録された音などの信号をコンピュータ解析することによってより客観的な評価を期待する試みもなされたが,充分ではない.
このような大きな弱点にも拘わらず,ドップラー法による気泡検知は今なお広く用いられているが,その理由としては次のものが考えられる.一つは機材が廉価であることと,それと関連して小さく持ち運び易いことが挙げられる.気泡検知に用いられる装置は画像表示機構を有せず,したがって安価で軽量であり,潜水現場に容易に持ち込むことが出来る.三番目に表だっては言われていないが,それまでの経過がある.超音波が気泡検知に応用されて既に30年前後が経過し,それまでの蓄積は膨大なものになっており,それを別の方法に変更するのは容易ではない.しかも,後述するように気泡検知の意味づけそのものも曖昧になってきている折から,敢えて変更するのに躊躇があるのも当然である.
その他の超音波を用いた気泡検知法としてBモード法とMモード法がある.いずれも音ではなくて画像として気泡を検知しようとするもので,Bモード法では超音波スライスの中の点状影として気泡を捉え,Mモード法では超音波ビームの中を横切る気泡を線状影として捕捉するものである.これらの方法はドップラー法で指摘されている弱点を取り除いたもので,より客観的に確実に気泡の存在を評価することができる.しかし,この方法を実際の潜水に応用しようとすると,全ての血流を把握できるとは限らないこと,背景のノイズの処理,気泡数の具体的評価等においてまだ問題があること等から,装置がかさばりかつ比較的高価であることもあって,いまなお一般的ではない.
以上述べた超音波を用いた方法はいずれも血中の気泡を検知しようとするものであり,静止した気泡を捉えることはBモード法を除いて出来ない.然るに,血中の気泡が直接に減圧症と関連があるものなのか否かについては従来から疑問が投げかけられており,近年その考えにますます拍車がかかっている.と言うのは,検知されている気泡は不活性ガスの溶存量の多い脂肪組織から出現している可能性が高いのに対し,減圧症の発症の具体的な部位は腱などのガスの溶存量の少ない部分であることが示唆されており,したがって血液中の気泡と減圧症とは大きな関連はないとするものである.また,脂肪組織には痛覚繊維が殆ど認められないことなども,痛みを呈する減圧症との直接的な関連が薄いことを示唆しているというのである.ある論者は減圧の評価に気泡検知を用いることを,落とし物を暗闇の中で捜す場合にそこだけが明るいと言って落とした場所とは遠く離れた街灯の下を探し回っていることにたとえている.しかしながら筆者自身は,減圧症の症状を呈さない所謂サイレントバブルの存在を考慮に入れても,逆に殆どの減圧症に気泡が認められることから,血中の気泡が減圧症の発症に直接関 与するか否かはともかく,少なくとも一つの指標として気泡検知を減圧の評価に用いることが完全に無意味だとは考えない.理想的には,気泡が減圧症の発症に最初に働いてくる組織細胞レベルでの気泡を検知評価できれば言うことはない.先に述べたBモード法は原理上は組織の静止気泡を捉えることが可能であるが精度に難がある.また特定の大きさの気泡に反応する共鳴法も試みられたが,一般的ではない.
なお,超音波で検知される気泡の大きさは,気泡の移動速度,用いられる波長,さらには機器の性能等によって大きく異なってくるため,一律に述べることは難しいが,M.R. Powellらは直径40〜50μ,A.O. Brubakkは同じく20〜50μとしている.以前に直径0.5μの気泡を検知したという報告もなされたことがあるが,超音波の波長から否定されている.
【減圧理論】
減圧症に罹患しないための浮上減圧方法を示すものが減圧表であるが,その根拠となる理論が減圧理論である.しかしながら,この減圧理論には事実と相容れない仮説と多くの人為的操作が加えられているので,純粋の理論と言うよりもむしろ減圧表作成のための理由付けと見なした方が妥当かも知れない.
と言うのは,不活性ガスがどのような速度で生体内に取り込まれまた排出されるかは今なお明らかにはされていないからである.放射性同位元素を用いた研究もなされているが,数量的把握までには至っていない.したがって,減圧理論に用いられているガスの動態はあくまで想定でしかない.しかも,基本となる考えにもそれぞれ相対立する考え方があり,単純ではない.
具体的には,不活性ガスの取り込みと排出が血液の灌流によるとするのとガスの拡散によるとするのとのいわゆるperfusion vs diffusionの問題(perfusion, diffusion and confusionと揶揄される), 異なる半減時間(半飽和時間とも言う.不活性ガスの生体への出入りの速さを示す指標)を有する複数の組織が発症に関与するとする複数組織モデルと単一の組織が関与するとするいわゆるmultiple vs single tissueの問題,発症の要因として組織内の過飽和圧力を重視するのと気泡の存在を重視する考え方の相違,組織内に溶けている不活性ガスの圧力を重視するか容量を重視するかの違い等の対蹠的なアプローチの仕方が挙げられる.
しかし,それら全てについて触れる余裕はないので,主なモデルの特徴を減圧理論の変遷をふまえて簡単にここに記しておこう.
それまで単に経験とカンに基づいて実施されていた減圧方法に初めて科学的アプローチを行い大きな成果を上げたのは,英海軍の要請を受けて開発に携わった当時の著名な生理学者J.S.Haldane教授で,それは20世紀初頭のことであった.この考えに基づく減圧表は英米海軍によって採用され,めざましい成果を上げたことから,その後世界中で広く用いられるようになり,現行の米海軍潜水教範に記載の減圧表も変遷はあるものの基本的には同じ考えによっている.したがって,この減圧理論はいわば古典的減圧理論とも見なせるものである.
古典的減圧理論の骨子は肺の中の不活性ガスは血液がそこを通過する短い時間内に全て動脈血中に移行して末梢組織に運ばれ,その結果組織の不活性ガスが増加するというものである.逆に減圧の時は生体に障害を起こさない深度まで浮上して,つまり環境の圧力を減らすことによって生体内に許容最大限の過飽和状態を作り出し,今度は静脈血の中に含まれている不活性ガスを圧力差を利用して肺を通して体外に排出しようとするのである.したがってこのモデルは灌流モデルであり,過飽和圧力を指標として減圧することになる.また,組織を流れる血流量によって組織内の不活性ガス量は左右されるので,組織単位あたりの血流の多寡により,半減時間が異なってくることになる.この点からは複数組織モデルになる.
この理論の最大の弱点は不活性ガスの取り込みと排出が同じ速度でなされるとしている点である.現在では不活性ガスの排出は取り込みに比較してかなり緩徐であることが判っている.気泡の存在を考慮に入れていないことも問題であろう.なお,古典的減圧理論に基づく減圧表の制定等の詳細については別稿に示しておいたので,要すれば参照されたい.
古典的減圧理論に対する異論はまず第二次大戦後1950年代に英海軍生理学研究所のH.V.Hemplemanらから出されることとなった.その主な理由として,減圧症の症状は重症例を除いて関節の痛みなどほぼ同一の症状を呈することから,発症に関与する組織として古典的減圧理論に用いられているような複数の組織を想定するのは理屈に合わない,という点が挙げられている.そこで彼らが採用した方法は複数組織の代わりにsingle slab tissueという単一組織を想定して,ガスの出入りは拡散によるとしたものである.すなわち,この考え方は単一組織拡散モデルとして位置づけることが出来る.
このモデルによる減圧表はランカシャー州Blackpoolの下水処理隧道の建設に於て初めて用いられたところからThe Blackpool Tablesと呼ばれるが,その特徴としては,滞底時間(潜降を開始してから浮上を始めるまでの時間.この時間と水深によって減圧スケジュールが決定される)が短い場合は減圧時間が米海軍減圧表に酷似しているのに対し,滞底時間が長くなるにつれて減圧時間がより延長されより安全域に近くなっていることが挙げられる.
ついで,1970年代から80年代にかけて,それまでとは根本的に異なった視点からのアプローチの方法が公にされることとなった.それは,Hemplemanも含めた従来の考え方が過飽和圧力を指標としているのに対し,気泡の存在を考慮に入れていることである.
それらの内,まず,Hillsは気泡が存在するとすると,(1)式から解るように,深い深度の方が環境圧力Pが大きいわけで気泡内の圧力も増加し,その分ガスが気泡から流出しやすくなるとして,気泡が出現することの多い減圧の最終段階の深度はむしろ深い方がよいとする,古典的減圧理論とは全く正反対の考えを示している.また,古典的減圧理論では組織と環境圧との差を大きくしてガスの排出を促進するために,最初の第一減圧点を浅くしているのに対し,Hillsは気泡が形成されるとガスの排出が抑制されること等を考えて,気泡が形成されにくいより深い第一減圧点を設けることを推奨している.
Hillsによる減圧理論は,気泡が組織に混在した一様な状態を想定した熱力学モデルというものであるが,問題はそこで用いられている拡散係数が通常考えられている値より10の3乗ほど小さいことである.
その他にも詳細は省略するが,Yountは深度によって気泡のガス透過性が変わるとするvarying permeability modelを提唱し,B.R.Wienkeはそれらをさらに改変してreduced gradient bubble model というものを打ち出している.
客観的に見た場合,確かに気泡の存在は超音波検知で確認されていることもあって,気泡を想定した考えの方が現実をより忠実に反映したモデルと言えるかもしれない.しかしながら,基本的には古典的減圧理論に基づく減圧表がいまなお多くの現場で開発され使用されているのが実状である.その理由の一つとしては,先に気泡検知の項で示したのと同じように,それまでの圧倒的に多くの減圧表が古典的減圧理論に基づいて作成されているという歴史が挙げられるであろう.また,古典的減圧理論に用いられている理論が初歩的なレベルの数学の力で理解できるのに対し,気泡モデルの方ではそうはいかないことも,理由の一つかもしれない.
なお,ここまで触れなかったものの言及されることの多いモデルの内,過飽和の経過時間による積分値で減圧リスクを評価するt-ΔPモデル,ガスの取り込みを指数関数的に扱うのに対し排出は直線的であるとする所謂E−L(exponential-linear)モデル,高所潜水に対応するスイス減圧表の基となるA.A.Buhlmanの理論等も古典的減圧理論から派生していったものと言ってよい.カナダのDefence and Civil Institute of Environmental Medicine (DCIEM)制定の減圧表もよく引き合いに出される.これは開口部の径の異なる空気袋を4つ直列に連結したアナログ計器を用いたいわゆるK-Sモデルから派生してきた減圧表である.現在では実際の減圧結果に基づいて様々な修正を加え,さらにそれに適合した数学モデルを開発しているが,結果からみれば拡散モデルに似ている(当該文献及びR.W.Hamilton私信1998).
ところで,以上述べた考え方はいずれも不活性ガスの動態を想定した上でそれぞれの理論に従って減圧方法を考えたものであるので,いわば演繹的アプローチということが出来る.それに対し,ガスの動態がいまなお十分には把握されていないこと,及び減圧症の発症そのものにも生体の側の様々な要因が関与すること等から,演繹的アプローチの限界が指摘されるようになり,演繹的な方法とは正反対の帰納的な取り組みが米海軍のP.K.Weathersbyらによってなされることになった.それは,減圧症の発症を二項分布に従った確率の問題として捉え,それまでに蓄積されてきた膨大な潜水記録を統計処理することによって一定の発症率のもとでの減圧表を作成しようとするものである.そこで用いられている確率統計処理方法はmaximum likelihood method(最尤法)というもので,減圧症に罹患する尤度(likelihood)をそれぞれの減圧方法で比較検討し,より忠実に過去の成績を反映した減圧方法を求めようとするものである.
なお,滞底時間が日単位という極めて長期にわたるいわゆる飽和潜水における減圧理論は,そのごく一端を別稿に示しておいたように,通常の潜水とは若干異なっているが,そこでも限定はされているにせよ帰納的なアプローチがなされていることを附記しておきたい.
【減圧表の評価及び制定】
減圧に関する研究の最終的な目的の一つはより安全に効率よく減圧するための減圧表を作成することにある.しかしながら,減圧表は実際の潜水と密接に関連しているために,単に理論的な面に限らず社会的経済的な側面からの制約が多いことも事実である.以下にそれらを踏まえて減圧表の制定に関する事情を示そう.
その前に何故今なお減圧表の検討を行わなければならないかを記しておく.もし,これまで述べたように減圧表が大きな成果を挙げたのであれば,それ以上努力する必要はないではないか,という素朴な疑問があるからである.まず第一には,開発された減圧表によって当初は満足の出来る成績であっても,その減圧表によってさらに深く長く潜ろうとすると多くの問題が出現してくることが挙げられる.というのも,開発に当たっては想定する深度滞底時間に限界を当初から設けているからである.したがって,実際の潜水からのフィードバックは不可欠である.そして現在では特に滞底時間の長い潜水の減圧方法には多くの問題があることが指摘されている.潜水方法も,当初はヘルメットを用いた深度の一定したいわゆる矩形潜水であったのが,スクーバ潜水のように深度が時々刻々変化するmulti-level潜水が多くなったり,人工的な組成の呼吸ガスを用いるようになる等,様々に変化しているが,その場合やはりそれなりの再評価をしなければならない.また許容できる減圧症の症状や罹患する頻度が時代によって変化していることも要因の一つである.
さて,減圧表を評価するためには,減圧症に罹患する感受性が先に触れたようにヒトと動物では大きく異なることから,どうしてもヒトが実際に潜ってみなければならない.減圧症の研究には動物実験が有用であるが,減圧表の評価にはヒトを被験者とした検討が絶対的に必要なのである.ネズミの減圧表を作っても意味がない.
ところが,ヒトを用いた実験となると当然のこと倫理性が問題となる.最近の人権に関する意識の変化はこの問題にますます拍車をかけているのが実状である.被験者となるダイバーも以前は膝の違和感程度のことは問題としていなかったのが,長期的な観点からの健康問題がクローズアップされてくるに従い,ダイバーからのごく小さな訴えも無視するわけにはいかなくなっている.現在も広く使われている米海軍の減圧表を制定したときのような減圧実験を行うことはもはや不可能である.実際に減圧表に関するワークショップに於て,これからは米国以外で減圧表の評価をすればよい,という発言がジョークではあるが記載されている.
また,減圧表の本質からも当該の減圧表を使用して潜った時に減圧症に罹患する頻度は低いが,その場合真に統計学的検討に耐えられるような評価をするためには,要求される例数は絶望的なほど多くなる.先に触れたように,問題となっている減圧は滞底時間の長い,言い換えれば減圧時間の長い潜水であるが,そのような場合,確実にコントロールされた満足のいく例数の減圧実験を行うことは事実上不可能になってくる.例えば,現用の米海軍の標準減圧表は,統計学的な観点からは無意味であるところの,対象とする減圧スケジュールにおいて減圧症に罹患しない減圧実験が4例続けばよいとして制定されているが,それは当時の米海軍をもってしても減圧実験を行うことが如何に困難であったかを如実に示しているものとも言える.
したがって,現在では,限られた例数の管理された減圧実験を行った後,実際の潜水からフィードバックして検証し(verification)確認する(validation)のが最も妥当な線ではないか,というのが大方の考え方である.但し,実際の潜水の場合に問題となるのは確実な深度や滞底時間等の情報の質であるが,良質の情報を得ることは意外に困難であり,例えば英国で大規模に実施された検討でも単に潜水の開始から終了までの潜水時間のみを有効な指標として用いているに過ぎない.もっとも,最近では携帯可能で潜水記録の回収が比較的容易で確実な(と言っても,あくまで従来の方法に比較しての話で,実状はそう単純ではなかろう)減圧コンピュータが普及してしてきていることから,これを用いた信頼性の高いフィードバックがなされることが期待される.
なお,本邦では減圧表の制定に公的に関与しているところとして労働省や関連の機構があるが,その基盤は貧弱である.したがって,最も具現性のあるアプローチの一つとして,既に公表されている欧米の減圧表を取り入れる方法がある.但し,この場合も限定的であるにせよ独自の評価はしておくべきだろう.特に,減圧症への感受性にはダイバーの体格等が関与することがあると言われており,実際の成績でも彼我で差があることを示唆する報告もあることから,無視は出来ない.
次に留意しておかなければならないのは,減圧表が減圧理論と大きく異なるのはそれが実用性と密接に関連していることである.いくら減圧理論が科学的に正確であってもそれが実用にならないのでは意味がない.その一端として先に示した最近の米海軍の取り組みが挙げられる.
と言うのは,従来の減圧表の制定に当たって取られた実験方法は厳密な統計学的検討には耐えられないことが認識されだした結果(減圧症に罹患しない減圧実験をたとえ12例続けたとしても,それは95%の信頼度で言えば,次の減圧に於て減圧症に罹患する可能性が27%もあることを示しているに過ぎない),統計学的にこの問題を解くのにふさわしい最尤法を用いてデータを再検討しようとすることになったのである.Weathersbyらは前述のようにこの問題に精力的に取り組み,減圧症の発症率を許容範囲内に収めるためには減圧時間を大幅に延長しなければならないことを見いだしている.ところが,この結果を米海軍潜水教範に反映すべく委員会に諮ったところ,現場サイドからの強い反対にあって,教範への記載は見送られているとのことである(R.D.Vann私信:1997及びP.K.Weathersby私信:1998).
このように減圧表の制定は海軍においてさえ一筋縄では行かないが,これを民間に当てはめようとすると事態はさらに複雑になる.減圧時間が長すぎると費用がかさんで他社との競争に敗れ企業の存続そのものが危うくなり,かと言って減圧症に罹患すれば治療や訴訟などで困難な事態に陥る.したがって,キーポイントは減圧症の許容できる発症頻度になるが,これは社会的経済的な状況に大きく左右される.総じて時代が下るほど,また先進国になるほど,許容発症率は低下し,欧州の北海ダイバーでは1〜0.5%という極めて小さい数字を上げているところがある.しかし,95%の信頼度で発症率が1%以下であると言うためには,実に370回もの減圧症に罹患しない減圧例が求められるように,この数字を達成するのは容易なことではなく,潜水会社それぞれで修正を繰り返しているのが現状である.なお,減圧スケジュールそのものは企業秘密として公表していないところが多い.
【減圧症】
再圧治療が治療に有効なことから間接的に推定されるように,減圧症の発症に気泡が関与していることに間違いはないが,その関与の詳細は意外に複雑であり,かつ基本的な事項でさえ未だ充分には解明されていない.例えば気泡の発生部位についても確実なことは解っておらず,したがって極端に言えばどの組織ひいてはどの臓器が発症に直接関与しているのかすら,いまなお議論が分かれている.発症機序についても,気泡による機械的な損傷のみならず血液凝固機転や補体の関与等様々な要因が関与する可能性が示唆されているが(補体の関与に否定的な論文も最近発表された),皮膚の発赤や四肢の痛みの原因として説得力のある説明はなされておらず,病態の解明からは程遠い.また,何故発症後2週間も経過した症例に再圧治療が著効するのか,と言った素朴な疑問にも満足のいく解答はなされていない.
このように,減圧に起因する障害の最終的な疾病としての減圧症についても課題は多く残されているが,紙幅も尽きかけているところから,本稿では以上指摘するにとどめておく.
最後に,将来混乱してくる可能性のある減圧症という用語について解説しておく.
減圧症というのは,基本的には生体内で不活性ガスが過飽和になったがために出現した気泡を原因として発症する疾患を示す用語であり,英語ではdecompression sickness,略してDCSという.したがって,減圧症は緒言でも述べたように,減圧時に含気体腔内のガスの容積が物理的に増加することによって発症する空気塞栓症とは病態が本質的に異なるものであるが,臨床面からこの両者を判然と鑑別することは容易ではない.このようなところから欧米では減圧によって発生する減圧症と空気塞栓症を一括してdecompression illnessとして把握しようとする考えが擡頭してきており117),最近の出版物ではその頭文字を取ってDCIという紛らわしい省略名で記述されることが多い.
しかしながら,DCIという概念は,本来鑑別が困難な減圧症と空気塞栓症を恣意的にまでして強いて区別しようとする不自然さを避けるために,あくまで臨床面の有用性から導かれたものであることを認識していなければならない.したがって,病態面から見ると減圧症と空気塞栓症ははっきり異なるものであることから,減圧症という概念及びその用語は残した方が望ましい.そうすると,このsicknessという言葉をよく似た言葉であるところのillnessという単語に単純に置き換えることによって別の概念を表す用語として用いるのは果たして適切なことと言えるかどうか,例えばdecompression disordersないしdecompression injuryのような用語の方がより妥当ではなかったかと疑問が残る.
これは実際の場面でも支障を来す可能性がある.なぜなら,特に潜水を専門としない,と言うことはつまり大多数の医療関係者やあるいはダイバーにDCSとDCIという用語の明確な区別を求めるのは土台少々無理な注文ではないかと思われるからである.特に日本でのことを考えると,未だに潜水病と減圧症の明確な区別さえついていないのに,ここでさらにDCSとDCIの差違を徹底させることなど殆ど不可能のように思える.現に筆者は空気塞栓症である可能性が圧倒的に高いにも拘わらず減圧症として扱われてきた海外からの帰還例の相談を受けたことがあるが,これなどはおそらく病名がDCIとして記載されてきた例を減圧症と訳したのだろう.このようにDCIという用語を軽々に扱うと空気塞栓症の概念が置き忘れられる懼れがある.筆者はDCIの訳語として減圧障害という用語を提唱しているが,まだ一般化していない.
【結語】
潜水における減圧の諸相のうち,基礎及び実用の観点からその要諦,誤解されがちな点,今後の課題等について論述した.参考になれば幸甚である.
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